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「メイミョー」植物園

  「 ミイトキーナ 」

 一九四二年七月二六日、「マンダレー」を出発して、軍直工兵隊の大発艇で村岸「サゲ
イン」に渡る。此処から「ミイトキーナ」に列車で向うが、列車は薪を焚いて走るため
ノロノロのスピードで昼は駅でなくて樹木の多い遮蔽の完全な場所に停車し、敵機の空
爆を避けて走るため、「ミイトキーナ」に着いたのは八月二日頃であった。この付近はビ
ルマ山岳民族のカチン族が住む集落で、竹で作た家が大部分で租末なものである。
街には電気が付いていて映画舘が有り、夜の映画館に行くと兵隊ばかりで一ばい、ふと
見ると将校が一人立っていて、徳島歩兵第一四三聯隊の麻植中尉だった。入隊まで勤め
ていた佐々達鉱山で机を並べて仕事をしていたのに一九四〇年の召集で出征して、初め てこんな処で会うとは誠に奇遇であった。
ほんの二.三分話をしただけで別れたが、その後の消息はわからない。
我々の任務は「ミイトキーナ」から「サンプラバン」に至る道路の補修作業で数キロ間
隔に小隊単位で天幕露営する事になった。「ミイトキーナ」よりは勘定作戦における捕虜
が五〇〇人ほど配属された。南方に来て雨期は初めての経験であるが、日を追うに従っ
て雨は次第に激しくなり、食糧が少なく毎日山芋掘・魚釣り・作業班等に分れて実施し た。
また爆薬を使って魚を取った、その時化け物の様な大きなナマズが水面に浮んできた、
河の主でないかと心配するほどだったが、斧で料理して皆に分配した。これも当時の思 い出の一つである。
夕方になると「プヨ」の大群がやって来る、大きさ一粍位のが頭の髪の中に潜り込んで
血を吸うため皆んな気狂いの様になる。天幕の中には蚊帳があるが、編目を通るので仝
く役に立たず、青草をいぶして急場をしのいだ、そのうち「マラリヤ」患者が続出「デ
ング」熱患者もでた。「デング」熱は一週間位ぶっとうし四〇度近い熱がでて、永く続く
と気が狂って暴れ廻る者も出た。次々患者が増えるばかり捕虜の中には逃亡するものも
出てきた。小隊の中には、元気な者がいない小隊も有る状況で.最悪の時に部隊の移動
命令が出て、何とか一命をとりとめた。
九月二〇日附,兵長に昇進する。