前へ 目次 次へ


「ビルマ」の民族衣装 ビルマ・カレン・シャン・カチン・チン・モン・ワ族


  「 ミャンミャ 」

 九月下旬頃、工兵第五五聯隊は「ミヤンミヤ」に根拠地を構え周辺地の警備となる。
「イラワジ・デルタ」のこの付近はビルマでも裕福な家が多く女の子は一日に数回「ロン ヂー」を着変えている。
一九四五年の歳の正月は此処「ミヤンミヤ」で楽しく迎える事が出来た。
ビルマにきてこんなにのんびりした臼を過したのは,この「ミヤンミヤ」が初めてだ。
食糧も酒類も種類が豊富で毎日楽しく過した。 それも束の間,アラカンでは次第に敵が前進し、(あの楽園の「ラムレ」島も一月二一日
英印軍の占領となっている。)北の方では「ミートキイナ」に敵の空挺部隊が降りたとか, 不安なニュースが次々と飛び込んでくる。
工兵第五五聯隊も北に向かって出動命令が出たので.聯隊の書類一切を残したまま出発 した。 武智中尉が留守隊長となり、次の連絡を待つ事になった。
私は聯隊の重要書類全部の保管に当る事になった。日数を待つ事なく次第に状況が悪化
して発て、住民達の動きも変ってきた。数日して機密書類を焼却する様にとの連絡がは
いった。余り外でオオッビラに焼く事もでさない。暗号書の乱数表等は使用中のを残し 表紙のみ取って、残りは焼却した、これに数日を要した。戦時名簿・功績名簿・留孝担 当者名簿・暗号書の一部を数人に分けて携行して貰う事にした。
状況は相当逼迫している模様だが.私としては、あの大量の機密畜類を持つよりは、少 なくなった書類で一安心した感じだった。
後は何時どの様にして引上げるかである。「ラングーン」「ブローム」街道をまだ敵が占
領していないか等、不安な材料が多く、残留部隊は小数であり、しんがりを退却するた め状況がつかめない。
引上げたのは「ラングーン」陥落の五月二日頃と思う。記憶は薄いが雨が時々降ってい た。
武智隊の指揮下に入り夜間に乗じて「イラワジ・デルタ」のクリークを北上して「レバ ダン」南方部落付近に上陸したがまだ敵の姿はなかった。
邁 作戦(方面軍「ラングーン」撤退、第二八軍「ペグー」山系篭城・転進
一九四五年四月下旬から八月十四日