前へ 目次 次へ


ビルマのタテゴト

  「 ウ 」号作戦及び 完 作戦に参加

 一九四四年六月一日より一九四五年一月二五日 資料によると「ウ」号作戦は七月上旬中止となっているので一時の雨宿りの様な作戦ではないか。 「アキヤプ」県「ラチドン」北方一キロ一五四高地の山の中に小屋を作って、そこで初め て聯隊の事務をとることになつた。毎日敵の偵察機,戦闘機がやってくる、その度防空壕に避難していた。 事務は留守担当者名簿の作成で複写も出来ず・鉛筆書で数部作成した様におもう。雨朋 の終り頃,兵舎が発見されて戦闘機より二〇耗機関砲の銃撃を受けて、作った書類に穴が明いてしまった。 また我々の宿舎の下に将校宿舎が有った。その近くに防空壕が掘られ、将枚四人が待避していた。 たまたま機銃掃射が直接壕の中に命中し聯隊附月形大尉・真島中尉・津守主計中尉の三名が戦死した。 八月九日は最悪の日である。聯隊本部としては作戦以来頼大の犠牲者を出した。ご冥福をお祈りする。 雨期あけにになって、完作戦の戦線の大整理により、アラカン地区は兵兵団と交代する事になった。 第五五師団は「バセイン」に移動し「イラワジ・デルタ」ビルマ南西の守備となる。 「イラワジ・デルタ」は仙台第二師団が警備に当って居たが七月十五日第三三軍の指揮下 に入り「ラシオ」に向かって転進している。