13 善通寺工兵隊に入隊
昭和十六年(一九四一)四月一日入隊は私と鎌倉實の二名
だけで私は工兵隊、鎌倉は騎兵隊で二人とも善通寺だった。
出発の日は氏神様で村の人の見送りを受けた。村役場村長
代理で平野山小学校校長を退職され村役場に勤務の鈴木先生
から励ましの言葉を頂き村人、また、鉱山の方々の、代表に
なった積りで、責任を感じ緊張の連続で入隊した。
聯隊長 外賀猶一中佐
中隊長 大藤芳久中尉
中隊附 和泉准尉 岸曹長 林、土佐、田岡軍曹
教 官 田中 小尉
班 長 阿部春男伍長
班 附 後藤兵長 亀岡上等兵 那須上等兵 安田一等兵
初年兵 川端 友成 佐伯
日比野 草薙 大和田 窪内 堺
石川 田中 鎌田 浅田 田村 大池 黒田 後藤 黒川
岡崎 立石 小西 松永 古屋 津田
善通寺工兵隊大藤隊 (第2中隊)
聯隊は四個中隊で私の中隊は第二中隊となった。 支給品が全部行き渡り初年兵全員が聯隊広場に整列した。 服装その他の点検が隊長以下で行われた。私の前で立ち止 まった、武田大尉が、君はどこか体が悪いのではないかと 質問を受けた。確かに私一人が皆と皮膚の色が違っていた。 私は海抜八〇〇メートルの山の上それも昼間は大半坑内に 潜っていた。同年兵達は海で働いて居た人、鉄道線路の保線 や太陽を諸に受けて働いて居た人が多かった。大丈夫です、 何処も悪いところは有りませんと答えた。 それから一ヶ月後やはり体力の違いか、極端に疲労を感じる 様になった。昼のトイレで真っ赤な小便をしているのを班長 に見つかった。早速医務室に連れて行かれ、軍医から黄疸を 併発しているので一週間の練兵休を仰せつかった。ちょうど その頃村の国防婦人会から慰問に来て頂いたが面会する事が 出来なかった。これが面会の最後に成ったようだった。その 後体も順調に快復して皆と一緒に演習ができた。
戦友 鎌田 戦死
毎日の様に大麻山で訓練が行われちるが、何と言っても土工 訓練が一番辛かった。班長の配慮か、私の右隣に浅田、左隣 は田村、浅田は船乗りで八五キロの体力の持主、田村は鉄道 の路線担当でスコップを使うのはお手のもの、お陰で両端は 大部援助して貰って、辛うじて皆んなと同時に作業を終了す る事が出来た。 六月頃上陸訓練で松山沖の中島で歩工連合の演習が行われ上 陸と同時に煙幕が張られそのため部隊の行動が判らず、演習 が終了して部隊に復帰した。 昭和十六年(一九四一)七月二十日 仁淀川歩工連合渡河演 習高知県仁淀川で歩工連合の渡河演習が行われ前日は朝倉高 知歩兵聯隊兵舎に泊る事になった。夜になると南京虫に悩ま され寝られないので、警備を兼ねていた国鉄朝倉駅のベンチ で寝た。 ここで初めて土佐湾、太平洋の荒波を見る事が出来た。何時 も瀬戸内海の静かな海しか知らない、初めての太平洋は五 メートルに近い屏風の様な波が次から次ぎに押寄せてくる。 こんな荒波に船は出るのかと思った、渡河演習は夕方から行 われた。この日は朝から雨で夕方にはうつす様な大雨となり、 風も強く成ってきた。折畳み舟を開けて担いだが、雨水が貯 まって担ぐ事が出来ない。仁淀川はもの凄い勢いで増水し、 遂に演習は中止となった。
戦友 堺 戦死
翌朝川岸に行って見ると畑の中まで水が来ている。台風の 来襲で相当の死者が出たと新聞に出ていた。九月中旬頃だった か参謀総長杉山元陸軍大将が善通寺工兵隊に来られた。池の 付近で架橋の演習が行われた。池の端には休憩所が設けられ ていた様に思う。私が杉山大将にお茶を持っていく役を仰せ つかった。田舎者で全く教養の無い私が何故か疑問に思った が命令だから仕方がない。お茶を出すまでは緊張の連続だっ た。後で同年兵から様子を色々聞かれたが何にも覚えていない。
戦友 黒川国雄