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39 裕一誕生、父の死

父は中曽根の町に下りて体の具合が悪く病院通いをやっていた。 年明けて昭和二四年(一九四九)待望の土地、田圃が買えた。 今年は自分の家のお米が食べられると父は喜んでいた。父は以前 から町に下りる計画を建てて居たようだ。母が亡くなる前に姉達は 皆んな町の学校に行って居たのだが、母が亡くなって全員山に引上 げて来た。そんな事で、父の喜びはひとしおだったと思う。 春が過ぎて父の喉にポリープが出来たようである。 その頃薬も充分に無かった。ストレプトマイシンが良いとの事、 アメリカからのヤミで購入すると一本一万円はかかる。私の給料の 数ヶ月分である、兄は何とか手ずるを求めて購入していた。 病気は相当進んで居る模様であった。何回か見舞いに行ったが、 その度に病気の事より土地の事が心配の様だった。六月末には 初めての子供が生まれる予定である。父も大変喜んで呉れていた。 この頃から次第に病状は悪化して危篤の状態が続いた。生まれて くる子供はどうにもならないが、病人の方は何とか延命をお願いした。

佐々連鉱山労働組合デモ

七月一日夕方私一人のところで子供が生れそうに成った。 ちょうどそこへ母が妹を連れて翠波峯を越えてやって来て 呉れた。とたんに子供が生まれた。産婆さんは間に合わない。 其のうちに産婆さんが来た。ようやく家の中が落ちついた。 今度は父の事が心配だ。連絡の様子ではあまり異常が無い ようで、翌日早々家族をおいて三島の父の元に駆けつけた。 父は自分の病気の事を忘れ喜んでくれた。 医者から見放された父、何とかして生きたいと本人も言ってた が遂に翌日七月三日夕方帰らぬ人となった。三五歳で独身と なり五人の子供を育て、ようやく念願がかない今からと言う ときに家族共々悔んでも悔みきれない心境だった。 葬儀を済ませようやくわが家に帰った、子供の顔も充分見ぬ まま行ったので初対面の様であった。数日して会社に出勤 したが、皆さんからお歓びやら、お悔みを頂戴した、先方も 言葉に窮して居る模様だった。

長男 裕一 生後5か月

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