前へ 目次 次へ

58 佐々連鉱山小史

(昭和三八年十一月六日佐々連鉱業所編纂小史より)
名 称 住友金属鉱山株式会社 佐々連鉱業所
所在地 愛媛県伊予三島市金砂町小川山乙二、一二二
鉱 種 黄鉄鉱  黄銅鉱  斑銅鉱  閃亜鉛鉱
位 置 四国山脈の北側、略々中央部にあり、国鉄
    予讃線伊予三島駅より南へ法皇隧道を通り
    金砂湖を経て道程約十八キロメートル
    標高五五六メートル国鉄バスにて約一時間を
    要する。
佐々連鉱山のはじまり 元禄二年(一六八九)
旧佐々連坑は金山谷渓谷にある旧坑は相当古く
火薬を使用せず掘鑿した模様で坑口付近の岩盤に
「元禄二年大阪屋開坑」の文字が刻まれていたとの
こと、その後明治年代に至る二〇〇有余年間は誰が
開発に当り、また事業を継続したかは、詳かでは
ないが、休止の状態で静かに眠って来たようである。

渇水の金砂湖

明治三〇年(一八九七)
伊予、東宇和郡、三好春吉が、この佐々連鉱床の 開発に着手し、その後北宇和郡成好村、渡辺祐常が 加わり共同経営で専ら採鉱を行った。 渡辺祐常により金砂露頭が発見されている。
明治四三年(一九一〇)
渡辺祐常単独の所有、経営となったため女婿 田村卯之助を鉱業代理人とし、明治四三年採掘鉱区 第一四三号(佐々連、金砂両坑を含む)の鉱業権を 設定して佐々連鉱床と金砂鉱床の探鉱に力を注ぐに 至った。
大正四年(一九一五)
金砂一号坑、二号坑堀下がりを開鑿等により、 当時手堀採掘により、年間粗鉱九〇〇トンを採掘 するに至り、それを手選により塊精鉱六三八トンを 馬背運搬により翠波峯を越え三島港に送り売鉱した。 三島平坦部では荷馬車で港まで運搬した。 その後金砂五号坑を上小川左岸沿いに開坑しひ押し 探鉱を行ったが、鉱況は余り面白からず、上部の 坑道の採掘が終了し、大正七年十月末岩城商会に 譲渡する。
大正四年(一九一五)金立鉱床の発見
大正四年金砂村苅田伊平が山神森の南方渓岸で露頭 を発見し、富郷村加藤善右衛門が試掘権を設定した。

金砂湖のボート

この頃岩城商会、岩城卯吉が鉱山業に着手、 岩城第一鉱業所、鉱業代理人平田甚平を迎え事業に 着手した。
大正五年(一九一六)十二月加藤善右衛門より 山神森鉱区を買収し金立の名称を附け、岩城の手に より開発されるに至った。
大正十三年迄主として探鉱並びに準備作業を継続し、 佐々連鉱床発見後はこの鉱床の開発につとめ漸次出鉱量 が増加したが販売せず、大正十三年末架空索道及び 寒川村江之元港の積込み設備を完成する。
大正十四年より鉱石を販売する事になった。 金砂坑は昭和三年初めまで主として探鉱を継続したが 鉱況は余り良くならず休止して、佐々連、金立の 両鉱床を主として採掘稼行した。
年   次   採 掘 粗 鉱 量品 位 銅
  大正十四年 五二,六〇〇トン 一.四八%
昭和 元年 三三,九〇〇トン 一.七八%
昭和 二年 三二,〇〇〇トン 一.〇〇%
昭和 三年 三四,五〇〇トン 〇.六五%
昭和 四年 四三,四〇〇トン 〇.五五%
昭和 五年 三八,五〇〇トン 〇.六〇%
当時産出鉱石は全部三菱鉱業株式会社に委託販売した。

金砂湖のボート

銅鉱と素硫化鉱とに分け、銅鉱中の硫黄分および 素硫化鉱を大日本人造肥料株式会社及び大阪 「アルカリ」株式会社に販売し、焼鉱となった、 銅鉱は三菱鉱業株式会社直島精錬所に送られた。
一.大阪「アルカリ」株式会社尼崎工場
一.大日本人造肥料株式会社木津川工場
一.大日本人造肥料株式会社下ノ関工場
一.大日本人造肥料株式会社小野田工場
鉱石一トン当り運賃
一.架空索道運賃         1.00円
一.江ノ元港積込み運賃      0.15円
一.江ノ元港より各工場への運賃
一.小野田工場          0.85円
一.下ノ関工場          0.85円
一.木津川工場          1.00円
一.小野田工場          1.00円
一.大阪「アルカリ」尼崎工場   1.00円
一.各工場より直島精錬所焼鉱運賃 0.70円

金砂湖

岩城卯吉は北宇和郡下灘村出身で神戸に在住し 船会社を経営、第一次世界大戦時に船成金として 大金をつかみ、その金を鉱山経営にかけたようである が、素人の悲しさというか、投資の限界というか、 個人経営の小企業的経営であまりよくなかったが、 卯吉の存命中は一代にして巨万の富をなした人だけに 素人ながら逞しさを感じる経営を発揮して、いわゆる 大正ー昭和にかけての経済恐慌時代にも四苦八苦 しながら経営を維持し、佐々連鉱山の一応の基盤を 築き上げたのである。

八幡の叔母

前へ 目次 次へ