59 銅山川ダム(金砂湖)
安政時代から懸案だった銅山川ダムが終戦後急速にクローズ アップしてきた。なかなか解決出来なかったのは、徳島県側 の反対が主な原因である。その理由は銅山川の水を瀬戸内海側 の燧灘に流す、いわゆる分水問題だった。これが急速に解決 する事になり、村の立退き問題となった。村では毎晩の様に 会合が行われた。村の中枢部がダムにより埋没する。 戸数にして一六五戸一八六世帯、私の育った横薮部落は一軒も 残らず立退きとなる。二度と見る事の出来ない、生まれ育った 故郷である。私も立ち退き者の一人として最後まで頑張ったが、 最後が強制収用と言う事でついに立退かざるを得なかった。 昭和二七年八月懐かしい棲み家を後に荷物をまとめ佐々連鉱山 の社宅に移る事になった。銅山川は別子銅山の西南笹ヶ峯に 源を発し、四国山脈と法皇山脈の山峡をぬって徳島県三好郡 川口に至り、ここで四国三郎吉野川に合流する。 流路延長五三キロメートル、流域面積二八二平方キロに 過ぎないが水量豊かなこの支流は干ばつに悩む宇摩平野農民の 渇望の的となっていた。 宇摩平野は一,二四六町歩の良田を持つが、地勢が東西十二キロ 幅四キロの帯状をなし瀬戸内海に傾斜するため農業用水に乏しく 四六の溜池に頼っているが毎年干ばつに悩まされ、大正十三年 は減収五割、昭和九年の大干ばつには七割近く減収している。 銅山川の分水による増産は年平均七,〇〇〇石が期待される。 外にダム建設による、貯水池の調節により洪水流量を減少し、 徳島県側の水害の防止に寄与すると共に、分水による高落差を 利用して発電し工業の振興に寄与する、憧れのダムである。
ダムになる前、折坂から岩鍋部落を望む