62 佐々連鉱業所人員整理
昭和三八年(一九六三)八月頃より、人員整理の話が持
上がって来た。佐々連鉱山の鉱況はそんなに悪くないが、
隣の別子銅山は赤字を続けているので仕方がない。今まで
会社を辞める等とは一度も考えて見なかったが、停年まで
此処にいても仕方がない。また坑内がマイナス一〇〇メートル
近くになり、温度も体温近くに上がってきた。このまま
では体力に限界がある。
調査係は私がチーフである。後の者はまだ若い、当然一番先
に私が退職願いを出すのがスジの様に思った。九月に入って
から退職する事を会社に連絡した。相当の波紋が有ったよう
だった、調査係の私が辞表を出すのだから鉱山の鉱石がもう
無いのではと、私に話しかけて来る坑内員の方も多かった。
私は鉱山は十年は大丈夫だ心配しないで頑張って呉れるよう
話した。しかし調査係も動揺が大きく十人近く辞めると言出した。
測量部門 三浦福好 伊藤秀男 加藤尚義
試料部門 藤下 薫 宮内 進 脇
試錐部門 吉岡康宜 中西保雄 鈴木
佐々連1区社宅
まだ若い人が居たように思う。私が退職した後は別子鉱山 から後任が来た模様だったが私も忙しく情報を聞く余裕も なかった。八月頃から東京・大阪に土地購入の依頼をした。 東京には義兄が、大阪には姉が住んでいる、九月七日、東京に 出張した。ちょうど佐々連に居られた時、経理を担当して居た、 有森氏に会った。彼氏は慶應出身のエリートで丁度住鉱コンサル タント会社の設立に当っていた。ここで平田、難波氏とも話合った。 測量担当が居ないので是非測量を引き受けて呉れる様にとの要請を 受けた。九月九日再度有森、土井氏と相談をして帰山した。 私は会社を辞める事は決めていたが行き先は大阪にするか、 東京にするかはまだ決めて無かった。即答はしなかったが、 帰りの汽車の中で住鉱コンサルタントに再就職する様に決めた。 早速佐々連に帰って返事をすると共に少なくとも、もう一人は 同僚として必要であるので、三浦福好に白羽の矢を立て交渉する ことにした。 本人は早く承諾してくれたが、家族の承諾は大変だった。 母親は東京の様な遠い処では、まさかの時に間に合わない。 嫁は体が丈夫でないから、「福」は地元に置きたいと反対された。 他に人材が居ないので何とかしてつれて行く様に話を進めた。
佐々連鉱山から法皇山脈
地元の先生には申訳ないが、病気の時ならこんな田舎より都会の 方が設備が立派だし専門の先生も大勢居られる、その点については 保証しますと言って説得に努力した甲斐有って承諾を頂いた。 お陰様で住鉱コンサルタント測量部を発足する事が出来た。 今度は住む場所と家を構えねば成らない、ちょうど東京には義兄 が湯島で洋服の商売をしており、義弟が田端で鉄道勤務をして居た。 義弟が川口で土地を購入しているとの事で、早速話し合って建築に かかった。秋までに住むようにしないと冬になったら大変である。 子供達は中学二年生と小学校六年生、二学期が始まったばかりである。 たくさんの手続きが有ったが無事何とか処理できた。 十月十七日希望退職者の受付が始まり十一月一日無事退職する事が 出来た。荷造り等を行って十一月十三日小中学校の挨拶を済ませた。 毎日毎日荷造に追われた、十一月十七日いよいよ住慣れた、また 生れ故郷でもある我が村、鉱山を下山する様になった。