86 金砂地域の歴史と概要
天正(1585)以後の金砂のあらまし 天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国征伐後、 伊予国府城主 福島正則の所領となり、 続いて松前城主が加藤嘉明に移り、 更に松山城主蒲生忠知に移り、 寛永十二年(1635)幕領に属し、 寛永十三年 川之江城主一柳直家に移りしが、 寛永十九年直家、播州小野に転封のため、 寛永二十年幕領となり、松山城主久松氏の支配に属す。 延宝六年(1709)再び幕府の直轄領となり、 享保六年 再度松山藩久松氏の支配となり、 明治元年 土佐山内藩の支配に移る。 明治四年四月 倉敷県に、同年五月丸亀県に、 明治年十一月 松山県に、 明治五年二月 石鉄県に属し、 明治六年二月 愛媛県と改め、 同九年二月 第八大区第十小区となり、 明治十二年二月大区、小区の制廃せられ、小川山村、 平野山村を併せて、 小川山村外一ヶ村戸長役場を置き、 明治二三年(1890)一月市町村制実施に当り、 小川山村、平野山村を併せて 金砂村を成立させた。 金砂村 総面積58.29平方キロ 別子山村足谷川を源流として東西に流れる銅山川は 金砂村の中央部を東に向かって貫流し 千メートル級 の山々は三十峯を数えて聳え水資源を生み出している。 法皇山脈中には東から 銅山川南側四国山脈は高知県境となり東より |
嶺南地方(明治、大正時代)
法皇山脈を境に銅山川沿いの地域を昔から嶺南地区と呼んでいた。上流から別子山村、富郷村、金砂村、
新立村、上山村の五箇村である。山また山の間に作られた細い道、渓谷沿いの道、山の尾根道を通って村から村へ、
そして小箱峯、寒峯、具定峯、翠波峯、堀切峯など徒歩でこつこつ歩いて平坦地に下りて行く
翠波峰から金砂湖東を望む
上小川部落