1 生まれ故郷と生い立ち
大正八年(一九一九)十二月二一日・愛媛県宇摩郡金砂村大字小川山 字横薮(現在の伊予三島市金砂町)に生まれる。当時私の家は田舎の 万屋、お店には何でも有った。毎日何人かの仲持ち(荷物を運搬する人) が翠波峯を越えて、荷物は全部肩に担いでやってきた。三島の町から は海抜六〇〇メートルの峠越えで銅山川(海抜三〇〇メートル)まで下り ねばならない。私の部落に来るには普通の人で二時間、荷物を背負って では三時間以上かかっていた。不便な処なので旅商人の宿もやっていた。 時々旅芸人が泊まって色々珍しいお話を聞くのも楽しみの一つであった。 横薮部落は全部でわが家を含め七軒の農家である。一軒一軒屋号が付いて いた。私の家は朝日屋、一番上にある家を日向の上、その下の家を調進 (昔横薮部落外れに横薮鉱山があった鉱山の資材一般の物品販売していた ところ)次が横薮往還の西のはずれに幸屋部落の真ん中に上川屋(一度 北海道に移住して帰ってきたとの事)わが家の上に横地、東の外れに長地 がある。その外にわが家の隣が巡査駐在所、その隣が郵便局、並びに 村役場で金砂村の行政の中心地となっていた。
野原
西から東に流れる銅山川は部落の前を流れ川沿いの家では洗濯は
全部川でやっていた。鏡のように澄んだ水、魚がたくさん居て洗濯を
しながら、魚釣りも出来た。駐在所の若奥さん、隣の収入役の奥さん
たちは常連の一人だった。川沿いにずっと竹薮が続いて居たので横薮の
名前がついたのだと思う。
小学校までは歩いて十五分くらい、川口部落に、川口尋常高等小学校
が有り、金砂村には小学校が六校、分校が一校の七校が有り、高等科
は川口校のみで、高等科になると全校から集まってきた。中学校に行
くには三島の町まで出て下宿か親戚に泊めて頂くしかない。当時不況
のため中学校に行く生徒は一人もいなかった。学校に行くには、徒歩
で十五分と言っても徒歩以外自転車も通れない道だった。銅山川と
上小川の二つ川を渡って行かなければならないが、全部丸太の一本橋
で大雨になると学校は早退、橋が落ちれば数日休校となる。釣り舟も
何ヶ所か出来ていたのでこれを利用する時も有ったが、子供だけで渡
る事は無理だった。
槍沢秋色
大正十三年(一九二四)六月一日母は弟を生んで産後の肥立ちが悪く 三五歳の若さで亡くなった。わんぱく盛りの私には全く記憶がない。 今でも申し訳ないと思っている。一番上の姉が小学校四年生だった。 母方の祖母がきて姉が小学校六年を卒業するまでみんなの面倒を見て くれた様である。母が亡くなってからは、わが家の生活も釣瓶落としの 様に悪くなっていたのだろうお店の方も大半が大福帳に記入するだけで、 誰一人現金を持って買いに来る人はなかった。お盆と歳の暮れに大福帳 より書き写した請求書を持って、冬の寒い夜提灯を片手に山道を一軒一軒 歩いた事が思い出される。父は自分では歩かなかった。(今思うと父 としてのプライドを持って居たと思われる)祖父の時代は、村一番の 金持ちで翠波峠越しの道も、昔は人が歩けるだけの道だったのを、祖父が 私財を投じて六尺巾の馬が通れる道にしたとの事、家にはその時に頂いた 金杯がある。村の議員にも二七年間席を置いていた、私が知ったとき には青そこひのため目が見えなくなっていた。私は何時も、お爺さん、 お婆さんと一緒に寝ていた、本を読んでいて知らない字が出てくると、 何時も、お爺さんの手のひらに字を書いて教えてもらった。
夕日
お婆さんは、とても優しく畑の仕事や、お爺さんの面倒を良くみていた。
父は、私が小学校二、三年頃にはあまり仕事はしていなかった。
昭和四年(一九二九)十二月祖父は老衰のため亡くなった。享年七一歳
で当時では長生きの方である。波乱に満ちた人生のようであった。この
頃は、世の中は不況のどん底であった。そんな時に、村の中から北海道
に移民する家が相当出た。同級生が数人北海道に行ってしまった。
今何をしているのか音信不通である。
村の年中行事にはお盆の盆踊りと、秋の村祭りがあった。なかでも盆踊り
は夕方から夜明けまで若い男女を中心にして大変賑やかにやっていた。
(時には数人で隣部落や隣村にも遠征することもあり、また、四月八日
には霊場第六五番三角寺・新立村の奥の院のお祭りがあり、この時は
四〇キロ以上の所をみんな、徒歩で老若男女が<お参りに行く、私の家
は、ちょうど道の中間に当たり、また、お店をやっていたので、前日から
お弁当やらお酒のおかずを作っていた。当日は座敷は言うに及ばず庭も
広場もお参りの人で一杯、大勢の女の人に手伝いに来て頂いて一日中てん
てこまい、翌日になれば、静かな村の平日に戻っている。
雪解け水「ノルウエー」