2 小学校時代
大正十五年四月から昭和九年三月(一九二六~一九三四)
岩鍋部落 石川義勝 森林太郎
川口部落 藤原好明 曽我武一
上小川部落 鎌倉実 藤原音吉 藤原一二三 藤原文子
小頃須部落 前谷操 前谷輝元 大西儀三郎 長野花子
横薮部落 石川順一
折坂部落 合田好子
金砂坑部落 藤井義清
信生部落 なし
日浦込部落 なし
はぜ部落 なし
小学校に入学するときは全員で一六名位だった。校舎は
一棟で中は三部屋に区切られ左から一、二年生。三、五
六年生。四年生と高等科一、二年生担当に分かれていた。
小田代
小学校一年生の時の担当の女の先生は記憶に残ってない。通知表に十点満点の五とか六をつけて くれている、余りよい先生ではなかったか? 三年生の時男子の篠原重雄先生が担当になった、まだ独身の静かな先生で書道の達人だった。 毎日習字の練習をやり、半紙を多く使って父に小言をくった。篠原先生の出身地は香川県観音寺 市の田舎の方と聞いている。大西康清、大西マツエ先生夫婦は、男子先生は三、五、六年生担当 で五、六年を受持って頂いた。音楽の大変好きな先生で最初からオタマジャクシの楽譜を書かさ れた。また肉弾三勇士の歌を作詞して歌わされた事を覚えている。 町の大きい小学校を見て、 我々の学校は複式である事がわかった。十人余りの同級生で、お陰様で一年から六年まで首席で 通す事が出来た。今のように塾はなく、予習も復習もやらず、お店の番、畑の草取り、農家には 四季折々の仕事はいくらでもある。家の者も学校の帰りを待つている。大西先生は三島町上町の 出身で、フーちゃんと言う女の子が一人いた。大きな身体の丸まると太った可愛い子だった。私 より五歳くらい歳下だと思う。
夏山雨後
加藤正義校長先生は小学校四年と、高等科一、二年を受持って居られた。 頭の良い数学の好きな先生で、代数、幾何の説明は何時も感心して聞 いていた。校長先生は、唯一つ酒癖が悪く酔っぱらって喧嘩はする、 物を壊す、数日学校を休んで又学校に出てくる状態だった。私が高等科 一年に入学したときはちょうど禁酒をしていた時であった。朝も早く 学校にきていた。二年間は真面目に学校にこられた、その後数年で退職 され、又酒を呑んでいたようだ。若いとき北海道で過ごされたようで、 よく、北海道の魚の多いことを話された。自宅周辺にたくさんの山を 持っておられ何時も手入れをやっている様子だった。自宅は金砂村平野山 部落に有り男の子が二人居た、その後兄は役所に、弟は加藤電気店を 伊予三島に出してやっている様子だった。
美幌
高等科一年入学者
川口校 石川順一 藤原好明 鎌倉 実 曽我武一
前谷操 前谷輝元 大西儀三郎 合田好子
藤原文子 藤原一二三
大薮校 高橋政行
平野山校 真鍋数一 真鍋兼倭 鎌倉かるみ 西村千恵子
中の川校 川口勘一 川口文恵 田辺君子
佐々連校 中本正幸 茂井義清
以上五校の優秀な生徒が集ってきた、本校の生徒は他校から来た
生徒に負けてはならないと皆から言われ緊張と責任を感じた。
私が高等科一年生の七月頃だった。自宅の前の銅山川が雨のため
増水し魚がよく釣れる時期だった。この時、初めて十匹余り釣れ
て面白い一日だった。
帰って魚の料理をしている頃より腹が痛くなって、とうとう
一週間近く学校を休んでしまった。校長先生より毎日残って自習
するように言われた。ちょうどその時私より二年先輩の高橋重光
さんが師範学校を受験するため学校で自習していた。先生からも
一人は寂しいからと言う事で、私も毎日自習する事になった。
何時のまにか朝も早くなってしまった。とうとう学校の鍵を私が
持つようになった。冬の寒いときも、わが家から炭火を缶詰の空
き缶に入れて学校に持って行った、そして各教室の火鉢に火を入
れてやった。学校には小使はいない、丁度二年間小使のやる仕事
を私がやってしまった。高等科二年を卒業する頃、加藤校長先生
より師範の二部を受験するよう勧められた。当時家庭が貧しく
進学など夢にも思っていなかったし実現は不可能だった。高等科
の二年間も無事首席で通すことが出来た。昭和九年(一九三四)
三月川口尋常高等小学校を卒業した。
バラ