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3 岩城鉱業株式会社時代

昭和九年から昭和十六年四月(1934~1941) 学校は卒業したが身体も小さく、景気が悪く勤める ところは全く無い。わが村に唯一ヶ所鉱山会社 が在った。岩城鉱業株式会社で佐々連尾山から銅の> 鉱石を掘り出していた。面接の日に佐々連鉱山 まで出かけた。歩いて二時間半は充分かかる。 事務所の位置が海抜八五〇メートル国有林の深い 谷間に建っていた。その谷間の両側に坑口が有り、 時々数台のトロッコに鉱石を積んでトンネルから 出て来る、それが川向いの選鉱場に運ばれていた。 鉱山長の直接面接の後、数学の問題を五問やって 自宅に帰った。あまり出来が良くないので心配して いたが、数日後採用通知が来た。同級生が数人 採用されて働いていた。(何れも鉱山の従業員の 子供である)私は最初から職員として採用された。 二枚の辞令を頂いた。自今事務見習を命ず。 月給拾参圓也を給す。一ヶ月の内休日は第三日曜日 だけであった。当時女子の日給は四〇銭。 一般男子の日給は一円。大工、鍛冶、さく岩、 支柱夫等の技術の有る人は一円二〇銭位である。

イラスト

宿舎は職員合宿に入居することになった。家族持ち 以外は、鉱山長以下大半が合宿生活をしていた。 職員の家族持ちの方は社宅、一般従業員は長屋、 独身者は鉱夫飯場、手子飯場、その外に調進(日用品 販売所)風呂場が有った、風呂は男女混浴で多少時間 で分かれていた。

金砂ダム建設現場

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