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7 室戸台風来襲

昭和九年(1934)九月二一日、入社して二ヶ月目、 一週間前にも相当の雨が降った、前日からの強い雨は止 む事を知らない、朝五時過ぎに炊事のおばちゃんが家の 中に水が入ってくると言って起こされた。炊事場に行って みると水浸しになっている。ちょうど社長の家と合宿と の間が小さな谷間になっていて大雨の時は多少水が出て いた模様だ、しかしこの時は水を止める方法はない、 その内に水は床の上まで上がってきた。急いで皆の布団と 荷物を社長の家に運ぶ事にした、ようやく運び終わって 押入に頭をつっこんで最後の荷物を出そうとしている時、 パアンと言う百雷の様なもの凄い音がして横の襖が飛んで きた、夜が充分明けきってないが社長の家は遠くに見え 自分の足元から社長の家までは深い谷に成っていた気が ついてみると坂上正一先輩と私だけになっていた。 着の身着のままで外に飛び出した、裸足のまま、泥水は 腰の当たり迄有り、ようやく避難する事が出来た。外へ 出て、全体が見える所に来てみて驚いた。合宿から下の長屋、 二棟の飯場は屋根だけ見える状況で全滅の状態だった。

金砂ダム建設現場

雨風は益々強くなり此処では危険だと思い尾根の岩場 に出た。大きな岩の影で雨風を避けるようにした。 すぐ前に見える対岸の山は全部国有林で一抱え、二抱え もある大木が最初枝がゆらゆらとしていると思うと まもなく高さ五〇メートルもあるのがまっ逆さまに なって数十本一緒に谷に叩きつけられている。
それが目の前だけでなく、右の山も、左の山も谷間と いう谷間は次々と崩れている。自分の居る所も何時 崩れるか心配になってきた。頭からは雨が滝のように 流れ落ちて居るが、払い除ける元気もなくなった。 寒さと、空腹、折角出来ていた朝飯も食べられなかった。 もう雨の止むのを待つ以外にない。茂井はどうしただろ うか、おばちゃんは逃げられたか、心配だった。 八時過ぎになって新長屋から連絡が来た。彼方は 大丈夫だから避難する様にと言ってくれた。

金砂ダム建設現場


坂上先輩と二人で雨の中を新長屋に向かって下りて 行った。最初にたどり着いたところは、坑内で作業 している、保田さんの家だった、早速食事を頂いて、 私に合う着物を近所から借りて来てくれた。それで 初めて自分にかえった気持になった、さすがの雨も 漸く止んで救出に大勢の方達が行っている様子、時間 が経つに従って被害状況が判明してきた。 食事を作ってくれていた、おばちゃんと、茂井君は 亡くなっていた、他に四人が家の下敷きになったよ うである。谷の近くだった飯場の方は谷の増水のため 早く避難していた模様で、数人が下敷きの中から数時間 の後、自力で這い出して来ている。二〇人位は埋って いると思っていたが被害は予想より少なかった。

金砂ダム建設現場

しかし道路は完全に寸断されてしまった。事務所に行 く橋も落ちた、佐々連坑口より選鉱場に向こう軌道が 布設された立派な橋だった。調進も川股のため一部床が 取られてしまって品物が流失した。架空索道も当分 動く見通しがない。二〇〇人余りの人が孤立してしまった。 会社では糧抹収集班を作って三キロメートル下流の中の川 部落まで玉蜀黍、薩摩芋、野菜の買出しに行った。 当時部落では米などは正月、村祭以外では食べていなかった。 仮橋が出来て当分事務所内の社長室を寝室にすること になった。十日近く借りた袷の着物で仕事をした、わが家 に帰るにも道が寸断され帰る事も出来なかった。その後 索道も運転開始し食べるものには不自由しない、材木が 有るので早速建築にかかり長屋が三棟、独身寮一棟は翌年 春までに、販売所一棟、職員寮二棟が昭和十一年頃に出来上った。 新しく出来た建物から名称が近代的になった。制度も 大きく変わった、特に飯場が独身寮に、昔の飯場頭が 無くなった、坑夫達の飯場入るには仁義を切って入った様 に言われている。災害の後崩壊した場所に行ってみた、 位置は合宿より一〇〇メートル位上の方で場所は国有林の 二十年位前に伐採した後に杉、檜が植林されもう五、六メートル に成長している一抱えもある雑木の株は完全に腐っていた、 土は肥沃で小石も余り見あたらない、二〇メートル近い亀裂が 数段出来て、落差が二メートル位の処もあり、一雨来れば相当 大きく崩壊する可能性があった。勿論家を建てられる状態 ではない、その後、営林署で崩壊後の補修にかかっていた。

翠波橋

一ヶ月近くで漸くわが家に帰る事が出来た。よく元気で 帰って来たと皆でお祝いをしてもらった。年末頃には平常 作業に復帰した。職員合宿の建築は最後になり、一年余り 社長の家を合宿に使った。この時の災害には全国からお見舞 いを頂き、また遠くブラジルからもお見舞いを頂いた。頂いた お見舞いの総額は私の一ヶ月の給料より多く本当に感謝の 至りだった。亡くなった、茂井義清君は私と小学校からの 同級生だった、お父さんは金砂坑の採鉱係員、兄は神戸本社の 事務をやっている、茂井君は坑内から出てくる鑛車の検車 をやっていた。宿舎はすぐ下に有った小学校の篠原先生と 同居していた。
丁度前夜から風雨が余にも強いので一晩私の布団で一緒に 寝ようと話が決まり夜遅くまで二人で語り合った。 朝起きて部屋に水がどんどん入ってきても自分のものは何も 無くおばちゃんの荷物を出すのを手伝って居たときに、 山津波が来たものと思われる。誠に残念至極である、 あのときに帰して置けば、とも思い悔いが何時までも残っている。 心からご冥福を祈る。

翠波橋

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