8 岩城卯吉社長のこと
岩城社長は災害の有った時は留守だった。年間三・四度 一ヶ月位鉱山で暮らしていた。往復は何時も馬に乗っていた、 道が悪くなったため事務所迄来られなくなった。馬の来るところ 迄の荷物運搬は私の仕事だった、時々社長から話しかけてきた、 その話は何時も私の祖父の話だった。社長は私の祖父の事は私より よく知っていた。昔から鉱山からの通り道で私の家で一服して行く のが通例になっていた。社長も私の家の縁台に腰を掛けて、 祖父と世間話をしていた模様で、社長がこんな事を言っていた。 社長が石川さんこの桜は何時頃咲きますかね、と問いかけると 目の見えない祖父が頭を傾げて、そうですな、後四、五日で咲く でしょう、と言った、よく見ると全くその通りで感心させられた と言っていた。 昭和十年を迎え仕事にも大分慣れて来たしかし勉強する時間がない。 測量をやっている先輩達は自分よりは時間があるように見えた。 何とか測量に職場を変更して頂く様にお願いしてみた。台風の時に ちょうど熱を出していた横内統祥先輩はその後体調が悪く長期欠勤 していたので一応認められた様だった。
兄石川登 現役兵として入営(S14年)
四月には二人ほど入社したが販売所の方に行った。丁度金砂坑長伊藤専助氏の長男利文君が私の交代に入社する事になった。
利文君は学校は親元を離れ西条市の学校に行った模様で初めて顔を合わせた。親の血をひく立派な青年だった。
何時も私の競争相手の一人だった。
金立大切坑25HP巻揚機室
金紗索道役から山神社、翠波峰を望む