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11 住友系佐々木清五郎鉱山長着任

昭和十三年(一九三八)早々、住友別子に居られ、その後 退職され女学校の先生をしていた。仙台市出身の佐々木清 五郎氏が鉱山長として赴任された。数ヶ月して仙台市役所 都市計画課に勤務されていた山田虎夫氏が測量係として赴任。 鉱山の測量はこれで一応かたちが出来た。春からいよいよ 川又の選鉱場予定地の測量を開始した。終了する迄に二カ月 余りかかった。この測量で地形測量の方法またコンターの まきかたなどを教わった。今度は坑内と新設する、新しい 坑口を結ぶ貫通測量である。何回か測量して高さと方向を 決定した。佐々木鉱山長就任以来職員も急速に増加した。 野田素子    採鉱係  仙台出身(早稲田大学)
丸山      選鉱係  (東京物理学校)
今井大吉 二宮 選鉱係          
高岡籐吉    採鉱係          
吉岡虎一    電気係          
岩田 飛鷹徳一 事務係          
小笠原 宮崎恒次 採鉱係          
砂崎英一    工作係          

佐々木鉱山長他職員一同

新選鉱場の建設計画に伴って金砂駅より選鉱場・大六谷駅 に至る架空索道の建設も始った。新たに開鑿を開始した、 金砂通洞(後に佐々連通洞)は、海抜五六〇メートルの地並 で七〇〇メートル掘進むと採掘跡に貫通する予定である。 将来、金立・佐々連の鉱石の搬出を考え通洞を途中から方向 を東に変更した。通洞開鑿の捨石堆積広場に鑿焼場・販売所 を含む大事務所が後に建設された。いよいよ鉱山の主力が 金砂坑側に移る事になり、鉱山はにわかに活気を呈してきた。 社宅の建設も新設する通洞付近に計画され、初めて一般従業 員の社宅に畳が敷かれた。このごろより長屋の呼名が社宅と 呼ばれる様になった。
小学校・病院・講堂・巡査部長派出所とあっという間に町の ようになった。三島の町に出るにも一山越えれば行ける。 そんな気持ちも有って鉱山は大変明るくなった。

佐々連大切坑口 職員の人たち

昭和十四年(一九三九)早春、選鉱場の大型機械が法皇 山脈を越え、銅山川を渡り、上小川部落にやってきた。 麦畑の真ん中を十数台の機械が丸太のコロの上に乗って ゆっくりと一、二センチ位進んで行く、一日にやっと一〇〇 メートル位だろうか。道路が無いのが大変な事だと思った。 この運搬方法を地元ではヨイトマケと呼んでいた。 このごろ、坑内の状況は佐々連坑は下部に行くに従って余り 良くなかった。金立坑は次第に鉱石幅が増大し一メートル 以上の処が見られた。金砂坑は新たに上ヒが発見され鉱幅・ 延長共に飛躍的に良なってきた。金砂通洞の貫通に併せて 引き続き三百馬力斜坑の計画が準備された。測量も坑内外共に 忙しい毎日だった。そんなときになって山田虎夫氏が急に 仙台に帰ってしまった。丸一年くらいだったが、たくさんの 事を教えて頂いた。私にとって唯一人の師匠であった。 仙台に帰ってからも手紙で何回か教えを乞うた。佐々木鉱山長 を初め、野田素子、丸山氏と、次々鉱山を去って行った。 野田素子氏、一人が家族づれで他の方は皆単身赴任だった。 野田素子氏の家は多額納税者との事、何時もお米は仙台より 送ってきていた。その他珍しいものを沢山お持ちで、度々 お伺いしてご馳走になった。

合田益雄 一年後輩

仙台に帰ってからは宮城県庁に勤められたとのこと。 終戦になって昭和二六年頃丸亀通産局に鉱業権設定等で 出張中、野田係長が東北の話をしているので野田素子氏に ついて聞いてみると、係長が驚いてその人は私の伯父さんだ、 四国に行っていたとは聞いていたが、まさか佐々連鉱山に 行っていたとは知らなかったと驚いていた佐々木鉱山長の 後任に新鉱山長と測量係がやってきた。若くてなかなか ファイトのある鉱山長だった。三ヶ月位たって変な噂が たってきた、経歴が違っているとの事で、その後姿を見る 事はなかった。測量係として来られた方も何も仕事をする ことなく鉱山を去って行った。

事務所職員 石川 合田 御手洗 三浦 高橋 青木 (S14)

佐々連山神社大祭 職員のみなさん

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