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17 泰国進入作戦

昭和十六年十一月二五日から十二月十五日泰国進入作戦に参加。 我が歩兵第一四三聯隊、徳島聯隊宇野支隊、工兵第三中隊の一小隊 配属は十一月二五日泰国「チュンポン」に敵前上陸、十二月十五日 には「ビルマ」国の南端「ビクトリヤポイント」を占領している。 岡根分隊は夕刻「バンコク」駅を出発し、翌一月八日には小隊のいる 「ピサンローク」に到着した。中隊はどんどん前進している。 「ピサンローク」から先は舗装の出来てない自動車道である。 「ラーヘン」まで西に向って一三〇キロを毎日トラックに揺られて 黄塵を被りながら前進した。一月十一日無事「ラーヘン」に到着した。 「ラーヘン」は人口三万人、「メナム」河の支流「メービン」河に 沿った美しい町である。いよいよここからは車も通らない峻険な 東「インド」山脈で我が工兵中隊は山道の補修をしながら前進して いる模様である。 一月十三日中村小隊は引き続き本隊追及のため「ラーヘン」を出発した。

バンコク市街

ここからは完全装備で徒歩で「メソード」まで直線八十キロの東 「インド」山脈を越えねばならない。四泊五日の予定、山の中の 野営は、気温十度以下に成ったと思われ相当寒さを感じた。 泰緬国境は非常に険しい「ヒマラヤ」山系の支脈となって 「サルイン」河の多くの支流が谷間を作っている。 一月十六日「メソード」に到着した。坂出港を出発以来、別行動 だった中村小隊も、無事中隊に復帰する事が出来た。うっそうたる 森林の中の田舎町「メソード」。この平和でのどかな国境の町 「メソード」は楯部隊の前進基地となった。 その昔、この「メソード」の町から「タイ」国軍が「ビルマ」へ 進撃したことがあった。それはもう四世紀も前の事、町の人達は 先祖代々語り伝えていた。「アユタヤ」朝が「メナム」河下流に 王国をつくり、山田長政が王朝の軍勢を指揮して戦い各地を平定した。 だが、それから一〇〇年あまりで「ビルマ」の「アラウンバヤ」 という王朝と戦争になって「タイ」国は破れてしまった。 これは二世紀前の「タイ」と「ビルマ」の王朝同士の戦いの話である。 それから二〇〇年の平和が続いた国境の町に太平の夢を破って、 日本軍楯部隊があの峻険な密林をおし分け、「パウオ」山を越えて やって来た。「メソード」の町の人々が驚くのも無理がない。

ビルマ タンビザヤ慰霊祭

「ビルマ」は面積、日本の一、七倍、東西六〇〇キロ、南北 一,六〇〇キロ、我々の正面の敵は英印軍二万五千人(イギリス人 四千人、インド人七千人その他カレン人、カチン人、ゴルカ人) 重慶軍五万人、直前は英印軍四万人、重慶軍一〇万人と言われている。

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