18 「ビルマ」進入「モールメン」攻略戦
昭和十七年(一九四二)一月二十日薄暮、三、四日分の携行食を 準備して丸亀歩兵第一一二聯隊に配属となって国境「ムオイ」河を 突破「ミヤワデイ」を占領し、さらに昼なを暗い大森林の「トナウ」 丘陵を越えて「コーカレイ」より「モールメン」に進撃した。 一月三十日「モールメン」は陥落した。「モールメン」の町は 商品が整然と飾られたままであった。日本軍の進撃が早く持って 出る時間がなかったのだろう。岡根分隊は「アトラン」河で後方 部隊の渡河作業のため「シャンナクバ」部落に駐屯し「ビルマ」 人を使って作業を行った。「ビルマ」国に進入してまだ二十日 である。それでも「タイ」人以上に親日的であるためこんな作業 が出来た。
ビルマ タンビザヤ慰霊祭
言葉は全く通じないが心が充分に通じた。部隊の渡河を完了 した後直ちに反転して「シッタン」河に向う追撃戦に参加。 「シッタン」河畔で中隊に復帰した。その頃我が中村小隊は 「ラングーン」対岸「シリアム」飛行場を攻略するため下流に 於いて「シッタン」河の渡河に当っていた。工兵中隊が 「イラワジ」河の渡河作業を完了した直後英軍のM四戦車に 遭遇したとの連絡が入った。早速工兵隊の出番と準備を進めて いたが「ワウ」付近以西の模様であった。 しかし「シッタン」河を渡河した、日本の小型戦車は「ペグー」 北方で敵のM四戦車に遭遇全滅したとの事だった。 日本の小型戦車の前面の鋼板は二センチ程度で、敵のM四 戦車は鋼板の厚さは十センチ近くあり、とてもたちうちに 成る代物ではない様である。 三月七日「ペグー」は陥落した。三月九日「ラングーン」も陥落した。 我々は「ペグー」に一時駐留して「ラングーン」に入る事なく 直ちに北に向って進撃を開始した。
ペグー 4面像