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30 邁 作 戦

方面軍「ラングーン」撤退・第二八軍「ペグー」山系篭城、転進 昭和二十年(一九四五)四月下旬から八月十四日「ペグー」山系 聯隊より出来るだけ米、塩を持って来るよう連絡が入り、部落で 集め牛の背中に、また、「ビルマ」人数人居て協力して呉れる との事で連れて入る事にした。途中海軍部隊が数人下山してきた。 食糧がなく、徴発に行くとの事、今からでは無理で無いかと思った。 何日も塩を口にしてないとの事、少しで良ければと袋を開けると、 何人か飛んで来てむさぼる様になめていた。 最初に入山した部隊は相当苦労して居る事がありありと判った。 5月15日頃無事一人の落伍者も無く聯隊本部に到着した。 第二八軍策集団、三万四〇〇〇人が「ペグー」山系に、四囲、 ことごとく敵に囲まれ、山麓の部落も、英軍に寝返った「ビルマ」軍、 東側に三個師団、西側に一個師団と蟻の這い出す隙間もない。

マンダレー

雨と飢え米が少量で筍が主食となった、補給の道は全く無い。止む事の無い雨、「マラリア」、「アメーバ」性赤痢で発熱 患者が小屋の中で枕を並べて寝ている。篭城も末期の様相を呈して最悪の状況に立ち至った。戦闘能力の有る内に出撃しないと 全員餓死しないとも限らない。その為には東に向って敵中突破し、「シッタン」河の渡河作戦を強行する以外に途はない。

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