36 佐々連鉱山に復職

昭和二二年(一九四七)七月一日佐々連鉱山に復職
佐々連鉱山は操業を中止する事なく事業を続けていた。
また職員の多くは戦前からの人が引き続いて勤務していた。
そんな関係で私に入社の話があった。また村役場からも誘いが
かかっていた。四月の選挙で村役場の村長に佐々連鉱山で
用度係をしていた平野山出身の藤原為行が当選。兄が収入役
をやっているので、一応佐々連鉱山に行く事にした。
最初のうちは自宅から通勤していたが、わが家も大分
変わっていた。兄が結婚して二人目の子供が出来る状態で、
朝食の準備や弁当作りが大変な様だった。一ヶ月位で会社の
寮に入ることにした。
寮の食事は配給そのままで腹を満たすまでには至らなかった。
自分の部屋に帰って夜食を作るのも一つの楽しみだった。
寮の部屋は二人部屋で、上小川出身の高橋貞義氏と同居した。
彼氏は朝鮮警察に勤めて居たが戦時中に朝鮮労働者が多く
なり労務管理のため入社した様だった。途中から金砂村農協
の組合長として転出された。当時佐々連鉱山は佐々連鉱業
株式会社として独自の経営をやっていた。
社 長 越智友義
常務取締役 岩澤武雄 鉱務課長 岡 正 男 工作課長 大橋代嗣
取締役 土生俊秀
取締役 島村良太郎
監査役 加納利国
測量係はチーフが退職して測量としてやっている者もいなく早速人集めから始めた。三浦一美の弟で福好、
伊藤専助氏の四男秀男の二人が測量に来ることになった。当時は会社の金繰りも悪く、給料も月二回に分けて
支払い、資金繰りのための図面資料の作成が多く、そんな仕事が当分続いた。
当時食料事情は鉱山生活者には相当厳しく課長さん達も時間がくると急いで帰り畑仕事や山の開墾に力を
入れていた。昼の弁当もさつま芋一個と言う具合で、一緒に食べるには特別なものは持って行けなかった。
戦前には村人で鉱山に勤める者は少なかったが、戦時中から鉱山で働く者が多くなり、農家を兼業でやっている
ので皆んな裕福にやっている様だった。