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53 小泉 進 佐々連鉱業所所長に就任。

昭和三五年(一九六〇)四月十五日 小泉進氏を佐々連鉱業所長 として迎えた。仙台通産局長を退職せられ住友金属鉱山に 入社されたとのこと。所長の社宅は私達の横にあったので 隣組だと言って、自宅に招かれた。大学の時の成績表まで 見せて頂いた。当時有名人だった人と同期生で俺の方が 成績が上だったなどと冗談を交え話を伺いご馳走になった。 小泉所長は東京大学を出られ通産局に入られたエリート組である。

正月雲辺寺参拝

十月九日、日曜日、隣組とハイキング部の連中、総勢三十人余り 所長夫妻と共に翠波峯のハイキングを小泉所長の提案で行った。 この日は朝から快晴の秋晴で子供達も元気に登った。 翠波峯の頂上からは眼下に金砂湖が細長く広がり遠く富郷付近 まで見え、遠くに別子山の二ツ嶽が霞んで見える。 佐々連鉱業所の選鉱場がすぐ前に有る。四国山脈は見る事は 出来ないが、法皇山脈が長く広がりを見せている。北側には三島、 川之江の町全景が見え東には讃岐平野の一部を見る事が出きる。

正月雲辺寺参拝

燧灘には伊吹島が浮んで見えている。子供の頃はこの燧灘 一ぱいに帆掛け船が見えていたが今は見る事が出来ない。 皆さん景色を満喫しつつ持って来た弁当を開いて食べた。 帰りは翠波橋付近でちょっと一ぷくして鉱山まで歩いて帰った。

飯岡海岸砂鉄採取

四月末栗ヶ市坑を閉坑した。昭和三五年度に入って電気銅が トン当り三二万円から二九万円となる。 五月十五日東京で実施する地質学会に私が参加する事になった。 一般の発表と討論を終了して、千葉県飯岡海岸の砂鉄の採取 状況を見学した。昭和二四年頃、東京大学の学生で佐々連 付近の地質を卒論に出すため来ていた浅野勝三氏に会う事が 出来た当時は食糧は無く相当苦労されたと思う。 今は日窒鉱業の本社勤務になっていた。住友からは北見から 助田、本社から小倉が参加していた。

正月雲辺寺参拝

六月十日頃本家の伯母が亡くなった。本家には私より二つ 年上の頼道と一つ年下の勲が居た。兄は私と同じくビルマ戦線 に最初から参加し、昭和二十年七月まで元気でやっていたのに 最後に病気に倒れついにペグー山系より出る事が出来なかった。 弟の勲は海軍で戦死している。本家では二人を戦争で亡くし 分家の私の家は二人共元気で帰還した、その後の伯母には苦労 の連続だったと思う、ご冥福をお祈りいたします。

本家の母屋、倉、門長屋

八月半ば地質調査所より地震探査に来られた。本社より長谷川、 二日市、別子からも鈴木、小倉が来て、佐々連通洞よりイヤ谷 探査坑道を利用して行われた。地震探査については余り知識もなく 準備その他の手伝いを実施した。

雪の雲辺寺

九月には毎年のように小学校運動会引続いて社員の運動会が 行われ、全山こぞって参加最後に各区対抗リレーが有り盛上がり を見せた。

雪の金砂1区社宅

昭和三六年(一九六一)毎年金比羅さんのお参りが通例になって いたが今年は雲辺寺山に登る事になった。親戚総勢十五・六名 子供ずれで一,〇〇〇メートルの山登りは大変だ。 山頂には雪があった。十二時には雲辺寺にたどり着いた。 お参りを済ませ帰る途中下りる道を間違えて一組が右の道を 下りてしまった。山麓では相当離れたところに着いている。 心配していたが夕方には帰り着いた。

高松の母葬儀

この頃高松の母は体調を悪くして病院に通院していた。また田端の 国鉄に勤務している義弟克美の結婚が月末に決まっていた。 親戚筋である。母が病気のまま自宅で結婚式を行った。 二月十六日母は回復する事なく亡くなった。母の味を知らない 私にとっては優しい母だった。長男が生れたとき、あの峻険な 山道を歩いて来て頂いて、何もかもやって貰った事が何時までも 頭の中に残っている。

高松の墓地

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