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54 佐々連尾山の霧氷

三月十日、日曜日 霧氷撮影のため田岡君と二人で佐々連 尾山に登った。雲一つ無い晴天に恵まれ、また風もなく穏 やかな小春日である、しかし今頃この山道を通る人は一人 も居ない。峠近くになると残雪も深く小径の小枝には10cm 位に延びた霧氷が吹き通す風のため北方向に延びている。 ブナの原生林も頂上付近は風のためか余り高くない、尾根 通りは人が通る程度で南斜面と北斜面に分かれ南側(高知県) は雪のかけらもなく草は芽を吹いている様で、一方北側 (愛媛県)には一メートル近い積雪が屏風の様になっている。 二人は持ってきたフイルムを最後まで撮って帰る事にした。 四月になって従妹の貞美が結婚する事になり岩鍋部落の自宅 で門出の宴が行われ参加した。 四月末、父の十三回忌の法要が伊予三島の兄の家で行われた。 早十三年に成るのか子供の成長と重ね合わせて、月日の経つ のは早いものだと感じる。 五月の連休に家族と藤下君達で満濃池を見物した。弘法大師 が作られたとか行って見ると規模の大きさ設備が充実して居り 昔の面影が無いように思えた。金比羅宮を参拝して楽しい 一日を過ごした。

佐々連尾山の霧氷

佐々連尾山の霧氷

佐々連尾山の霧氷

昭和三六年(1961)7月20日 定期移動
転出 重松慶之助、石川芳光
転入 岡西義明、五十嵐康男、中村宏、西野忠勝、木下郁馬    高下照男、加藤勝美、高口寛之、(副所長)田中直行
八月末 佐々連野球部解散する。
    選手の夜間勤務、グランドの一般社員使用との理由。
九月  ボーリング実施中だった金泉、佐々連ヒ間で 着脈新泉ヒと<命名した。また海外調査のため調査係 ボーリング担当の木谷泰夫がタイ国メソットでボー リング探査のため派遣される事になった。メソットは 私がビルマ作戦、昭和十七年(1942)一月最後に駐留 していた処で懐かしく感じ何かとアドバイスをした。
十一月従弟の豊が結婚することになった。彼は昭和三一年 に父を亡くして八人の弟妹を抱え母と二人で頑張った。 妹二人を嫁がせ漸く自分の番が来たのだ、大いに頑張って 貰いたい、ご多幸を祈る。
昭和三七年(一九六二)一月一日山神社参拝、今年は希 にみる大雪でわが家の庭で五十センチ近く積った。雪に 埋もれた正月と成ってしまった。

父の13回忌 (s36.4)

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