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55 大阪の義兄交通事故


昭和三七年(一九六二)一月十九日、大阪の義兄が交通事故に遭った。早速病院に駆けつけたが大きな息はしているのみで 人事不省の状態だった。外傷は余り無いので先生に聴いてみると頭を強く打って頭蓋骨が割れて中の脳みそに 相当損傷が起きているので蘇生は無理との事、一応レントゲンを見せて貰ったところ頭蓋骨が真二つに割れて 中は我々が見ても分らないが、これでは如何ともしがたしだった、夕方ついに息をひきとった。 義兄はフィリピン戦線で爆撃のため目をやられて視力が相当落ちて居たので交通事故に遭ったのだと思う。 三人の子供はまだ未成年のままこの世を去った。 三月半ば金砂第二鉱滓ダムの地下トンネル付近に穴が開き鉱滓の一部が流出した。大事に至らず早速補修し事なきを得た。 三月二五日 長男裕一佐々連小学校を卒業する。 四月早々佐々連鉱業所労働組合の大会が行われた。

大阪義兄の葬儀 (s37.1.19)


四月八日 裕一金砂中学校に入学。金砂中学校は金砂湖畔に新たに出来た学校だが佐々連鉱業所からの 子供が大半を占めている状態になった。 昭和三七年(一九六二)六月一日 移動 転出 岡 正男(余市所長) 小原 実(サンチャゴ) 転入 岡本辰雄 八月一日 転出 三輪忠雄、浜田 肇、石田光司、柴田巌、          遠藤幹治、西崎元晴 転入 石沢富之助、鈴木琢衛、新井敏行、横山 昭和三七年下期から貿易自由化にいち早く銅の自由化が打出され住友金属鉱山のコストの高い事業所余市、 八総及び北見鉱山は減産体制に移行する事になり余剰人員の希望退職、社外転職、転勤が行われる事になった。 十一月三十日佐々連鉱業所は受入れ側となり転勤してくるもの計三五名が家族同伴で着任してきた。 終戦直後から佐々連鉱業所に居られた岡正男副所長兼採鉱課長が余市鉱業所所長に転勤せられ、 後任に石澤富之助採鉱課長として着任された。
石澤課長は後に判った事であるがビルマに向こう最初の小隊長中村博中尉と士官学校が同期で二人は隣同志の 寝台で寝起きしていたとの事また最近私がビルマの思い出を書いてお送りしたところ石澤課長が菊兵団(第十八師団) の工兵隊でマンダレーに入ったと聞いて驚くばかりだった。

大阪の兄の墓地


石澤採鉱課長とは一年余りのお付き合いであった。 昭和三七年(一九六二)九月佐々連鉱業所は黒字だと言っても、希望退職者を募集し、或は新しく開発した シボレックスへの転勤等が打出され、楽しかった鉱山も話題が暗く湿りがちと成ってきた。
当時の小田係長を含め調査係十九名の写真が残っているこれも記念の一つである。昭和三八年(一九六三) 一月大阪の義兄の分骨を高野山に納めるため高松の父と石砂の叔父、忠雄、大阪の家族共々高野山に登った。 さすがに高野山は寒い雪に埋もれた参道を一キロ近く歩いて無事目的のお寺に着いた。納骨を済ませ帰宅する。

調査係 全員


一月は佐々連でも大雪に見舞われた。 昭和三八年二月一日 転出 岩崎昭義 転入 大内君男、大須賀匡、岸 秀治、 近藤秋夫 四月 北見鉱山は鉱量がつきて閉山する事になり、余市も下期中に閉山する、佐々連から余市に転勤した 岡所長も最後の店じまいを引受けてしまった。 お気の毒である。電気銅の価格も自由化によりトン当り二六万円となている。

大雪の金砂2区、3区


昭和三八年六月十五日 転出 小田康二郎地質、試錐係長として別子に転勤
           転入 菊地 豊調査係長代理として着任
七月一日       田中政吉シポレックスに転勤
           別子より土井正民氏本社に転勤する。

正月の大雪山神社

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